
(復帰の翌年、オートバイで国会正門に突入して命を絶った上原安隆さんのヘルメットを示しながら涙ぐむ森口さん。)
今日は、南風原の画廊沖縄で開かれている森口豁展の最終日。
森口さんは、米軍統治時代の1956年から今日まで、沖縄の状況を、ジャーナリストとして50年以上も発信し続けてきた。今回は、彼が撮りためた写真の初めての展示会で、あわせて、彼の多くのドキュメンタリー作品が上映される。

(上原さんが激突死した際のヘルメット。国会議事堂の鉄扉の痕跡が3本、くっきりと跡型を残している。)
なによりも大判の写真に圧倒された。戦後とはいえ、米軍支配下の沖縄。離島、子供たち、人々の暮らしを暖かく見つめた写真、そして、国道を行進する海兵隊や、戦車の隊列。写真展のテーマは、日米安保改定50年「さよならアメリカ」というものだ。

今日の上映作品は、「沖縄15年目の夏・基地の村の若獅子たち」、「昭和が終わった日・精神風景オキナワ」、「激突死」の3本。
「激突死」は、1973年、ナナハンに跨り、猛スピードで国会議事堂正門に体当たりして死んだ上原安隆さん(享年27歳)をおったドキュメンタリー。
上原安隆さんは、恩納村喜瀬武原生まれ。迷彩服の米兵が戦車で走り回る村で育った。水産高校を出た後、基地の町コザで、米兵相手のタクシードライバーやキャバレーのボーイとして働く。
米兵を楽しませることのうまい、店一番の人気者だったというが、そんな彼もやはり、あのコザ暴動に参加する。米軍のパトカーが燃え上がり、その周りでカチャーシーを舞う人たちもいたという。数日後、彼は、車両に火をつけたとして逮捕される。
その後、彼は、本土に渡り、神奈川県川崎市で長距離トラックの運転手として働いた。休みの日には、アパートで一人、高橋和己の「孤立無援の思想」などを読む、静かな青年だった。
そして、沖縄が日本に「復帰」してほぼ1年たった1973年5月20日、彼は、国会議事堂正門の鉄扉に体当たりする。遺書はなく、翌日の新聞には、「暴走族か」と報じたものもあったという。
森口さんは、当時、沖縄にいて、新聞の小さなベタ記事で彼の死を知る。しかし、仕事の関係で、彼の死の原因を追うことはできなかったが、東京に転勤した後、死から6年たってやっと彼のドキュメントの制作にかかった。
森口さんは、彼の死を、「たった一人のコザ暴動」と言われている。
他の映像も、復帰前の沖縄の姿を映して興味深い。那覇の高校生らが基地の前で集会を開き、抗議文を基地に持っていく映像。また、1965年に那覇で撮影された「中高生の大行進」という写真は、高校生らが、白い横断幕に「私たちは日本人です」と大きく書いて行進しているのに驚く。
森口さんは最後に、現在の沖縄の状況に触れ、言葉を詰まらせた。そして、涙ぐみながら、「さよなら日本」という言葉で挨拶を締められた。
会場の沖縄画廊のオーナーも、「(森口さんのことを)最初は、どうせウチナーフリークの一人だろうと思っていた。しかし、とんでもなかった。」と言われていたが、これだけ沖縄の人たちに心を寄せた本土の人もいるのだ。